私たちの生きている世界が、めったに起きないはずの出来事で説明できてしまうケースがどんどん増えている。 すでに起きたことはいつだって実際ほどには偶然には思えないものだから(後知恵バイアスと呼ばれる)。 確率とは、私たちの知識が不足していて、確実なことはわからないと認めることであり、 実際に起きた結果とは違う結果が起きていたかもしれないことを考慮したり、世界はこうではなかったかもしれないと考えたりすることが確率論的な考え方の核心となる。 自然科学ならまだ確率がわかることもいくらかあるけれど、経済学のような社会「科学」の世界では、専門家がいくらはやしたてようが、ほとんどなにもわからない。 準備を怠らないからこそチャンスも生まれるのだ! 私たちの脳みそは因果の方向をさかさまに捉えてしまうことがある。 理論の裏づけなしで統計を使うのは間違いだ。でも、その逆は間違いではない。つまり、統計の裏づけなしに理論を使うのは間違いではない。
私たち人類の考えや行動にはもともと限界や欠陥がある、だからそのことを認め、そのことを前提として個人や集団の行動を考えるべきだと信じている。 世の中には、簡単ではっきりした答えがあると考える人たちと、単純化すれば必ずどこかに重大な歪みが出ると考える人たちがいる
運の助けで得られたものは、運に(おうおうにして急に、そして思ってもみないときに)取り上げられてしまうことがある。その逆も同じように重要だ(むしろ大事なのはこちらのほうだとさえ言える)。 つまり、どんなに成功する可能性が高くても、失敗したときに失うものが大きすぎれば可能性の高さなんて関係ない
どんな場合でも、トレーダーをまとめて押し流してしまう稀な事象、つまりパニックや急な暴落で吹き飛ぶ可能性を避け、逆にそんな事態が起きたときに儲けたいと考えている。 あと数百万回キャリアをやり直しても、ネロが運でひどい目にあうケースはとても少ない。その一方で、そんな手堅いやり方をしているために、大変な幸運にみまわれることも、やはりとても少ないのだ。 仕事について検討するなら、その仕事で成功した人の例ではなく、その仕事を選んだ人の平均を考えなければいけない。 観察された結果と観察されないけれどあり得た結果の両方を考慮すべきだ
どんな分野(戦争、政治、製薬、投資など)でも、結果で成績を測ることはできない、あり得た他の可能性(つまり、歴史が違った道をたどっていた場合)のコストで測るべきだ 私たちには結果として得られた富は見えるけれど、富が得られる過程は決して見えない。おかげで私たちはリスクを忘れ、失敗例にはまったく注意を向けない。 当然、物事を判断するときの私のやり方は自然と確率論的になる。つまり、可能性としてどんなことが起こりえるかという発想にもとづき、また、 人は何か抽象的なことに対して保険を掛けるのを嫌う。彼らが注意するのは、いつも、もっと生々しいリスクのほうなのだ。 つまり、リスクを避けようとするとき、合理的な考えは少ししか関係ないし、ほとんど関係ないと言っていい。合理的な考えが役割を果たすのは、ほとんど、自分の行動に何か理屈をつけて正当化するときのようだ。 世界はどんどん複雑になり、一方私たちはどんどん単純化されたものにばかり接するようになる。 定義によって、私は流れに逆らった動きをする。だから私のスタイルや方法は当然のように人気がないし、簡単にわかってもらえることもない。 私にとっては他人がランダム性にだまされ続けてくれる必要がある。
さて、サンブル経路はあらかじめ決まっている場合もあるし、ランダムに決まることもある。次に、その違いを考える。 私にとって歴史は、使いたいと思うレベルで役に立ってくれればそれでいい。つまり、過去の出来事に照らして考えたいときにちゃんと考えられて、他人の考えをうまく盗んで利用できて、 実際、私は歴史から二つの方法で学ぶ。 人は無意識のうちに学習し、意識できる部分では学習した内容を覚えていない場合があることが示された。 過去を振り返ると、いつも過去は決まっている。観察できる過去は一つだけだからだ。 間違いかどうかは事後に決まるのではない。事前に得られた情報に照らして決まるのだ。 市場でもよく言うように、間違ったトレーディングをしていればそのうちツケが回ってくる。 マスコミでありながら有能な人間であるためには、 私たちに見えて、私たちが勘定に入れるのは勝ち残ったものだけだ。敗れ去ったものは取り除かれている 期間を短くとると、ポートフォリオのリターンではなくリスクを観察することになる。つまり、見えるのはほとんどばらつきばかりだ。 苦しみは喜びで相殺できない(一部の心理学者によると、平均的な損失で人が感じる苦しみは、同じだけの利益で人が感じる喜びの二・五倍の衝撃力を持つ)。情緒面では赤字が出るのだ。
命題は二つに分類できる。一つは「2+2=4」といったような演繹的な命題だ。つまり、厳密に定義された公理系(この場合計算の決まりごと)から疑問の余地なく導くことができる命題である。もう一つは「スペインには雨が降る」とか「ニューヨーカーは一般的に粗雑だ」といったような帰納的な命題だ。つまり、(経験や統計など)なんらかの形で検証が可能な命題である。 日々の生活の細かいところでは、私たちはべつに合理的であったり科学的であったりする必要はない。そういうのは、生き延びられるかどうかがかかっているときだけでいい。でも、現代の日常では、そのまったく逆のほうへ誘われているような気がする。つまり、一方で私たちは宗教やごく個人的なことではものすごく合理的で科学的になり、他方では偶然に左右されるような物事になると非合理極まりない態度をとる。
「同業者に比べればまし」だからいいんだと感じていた。 経済指標にもとづいてトレーディングをやって、これまで成功できたのは単なる偶然かもしれないし、もっと悪くすると経済学的な分析そのものが過去に起きたことに合うようにつくられてしまっているかもしれないとは、彼らは決して考えない。 自分の考えを批判的に検討することがない。「ストップロス」を置いてスタンスを変更するなんてことがないのに、それが表れている。 稀な事象は突然起きる。私たちは物事がよりよいほうへ連続的に「収束」していくような世界で暮らしているわけではない。人生のいろいろなことも連続的に動き続けているわけではない。 平均では、確かに動物は適応するのだけれど、それぞれの個体が全部適応するわけではない。動物がたまたま運のいいサンブル経路をたどって生存することがあるように、
損失が起きる頻度や確率は、それ自体だけでは、もうぜんぜん関係ない。結果の大きさと合わせて考えないといけない。 大事なのは何かが起きる確率ではない。実際にそれか起きたときにとれだけ儲かるかを考えないといけない。どれぐらいの頻度で儲かるかは関係ない。どれだけ儲かるかが大事なのた。 私がずっと市場でやってきた仕事は、「歪みに賭ける」と言うのが一番合っている。つまり、稀な車象て儲けるのだ。 オプションを買えば九○%の割合(つまり頻度)で損をするという統計は、残る一○%のときに平均でいくら儲かるかを考えないと、明らかに意味がない。 経済学以外の分野なら、ペイオフの違いがあまり重要ではないときに極端な値をサンプルから排除してしまっても問題は起きない。 休暇の計画を立てるときに平均気温を知りたいなら、極端な値を取り除くのはいいやり方かもしれない。でも、天候の物理的性質を知りたいときはうまくいかない。 確定的な世界なら物体の位置の変化は時間に依存して決まる。 歴史の教えるところでは、これまで起きたことのないことでも起きるときには起きるのだ。歴史を見れば、狭い意味での時系列データからわからないことがたくさんわかる。 稀な事象とは、過去のデータを狭く解釈してしまい、その結果、リスクを見誤ることだ、と私は考えている。 そもそも稀な事象が存在するのは、まさしく予測されていないからだ。通常、稀な事象はパニックで起きる。そしてパニック自体も投売りの結果起きるのだ(逃げ出そうとする投資家たちが、手当たり次第になんでもできるだけすばやく売ろうといっせいに動く)。運用担当者やトレーダーが予測していたなら、彼らも彼らのお仲間も、そもそも投資しないだろうから、稀な事象も起きないのだ。 損失が出ると、ただ損失が出たということだけがまず認識され、それ以上の意義はしばらく経たないと認識されない。利益のほうも同じだ。市場参加者は損失の回数が少ないのを好み、利益の回数が多いのを好む。全体としてのパフォーマンスの最適化を考えるわけではない。 市場には稀な事象を逆手にとる種類のトレーダーがいる。そういう連中にとって、 情報が多ければ多いほど、得られた結果は信頼できる。では、どれぐらい? 私たち人間は自分の知識にもとづいて行動する。ここでいう知識とは過去のデータだ。
この分野ではランダムな要素が折り重なって大きな影響を及ぼすからだ。トレーディングの世界ほど帰納の問題が重要な分野は他にない。 白い白鳥を何羽見ようと、すべての白鳥は白いと推論することはできない。一方、黒い白鳥を、羽でも見かければ、その推論を棄却するのに十分である。 データを使えば命題を反証するけれど、命題を証明することはできない。歴史にもとづいて推論を棄却することはできるけれど、支持することはできない。 現実はゲームと違って一貫した公平なルールも規制もない。 物事をゲームみたいに捉えて勝とうなんて考えてはいけない。 価格がひとたび均衡から離れると、そのことで価格はさらに均衡から離れ、フィードバックの循環が続いてさらに離れていく、そう考えている経済学者はたくさんいる。 彼は偶然にどう立ち向かえばいいか知っている。 黒い白鳥がいるという命題を立てることは可能だ。理論を正しいと証明することはできない。
理論は一時的に容認されるだけだ。先ほどのカテゴリー二つのどちらにも当てはまらない理論は理論ではない。 何をするにしても、 具体的なことをたくさん集めて一般化する、それが帰納である。そうするととても便利だ。具体的なことの集まりに比べると、一般的なことは私たちの記憶の容量をそれほど食わない。でも、そういう圧縮を行うと、ランダムな部分があまりわからなくなる。 統計学が何かの役に立つときは私も統計学を使う。それが危険なときは使わない。
私たちは目の前にぶら下がった情報に飛びつくように、目に見えない情報は無視するように、躾けられているからだ。 レシミュレーションを正しく行うにはどうすればいいだろう?
モンテカルロ・エンジンを使って、純粋に偶然の状況をつくってやるのが私のやり方だ。普通に使うのとまったく逆のことをやるのである。 でも真実は、トレーダーが運を使い果たしてしまった、それだけなのだ。 母集団が長期的に損をすると期待されるようなマネジャーばかりでできていても、事態はあんまり変わらない。なぜだろう?そんな彼らでも、 ある市場ですばらしいトラックレコードを持つマネジャーが何人出るかは、(歯学部に進む人の数みたいに)運用の仕事に就く人が最初何人いたかで大きく左右される。そんな人たちに利益を上げる能力がどれぐらいあるかよりも、 たとえばパフォーマンスが一番いい集団の分布がそうだ。そういう分布の平均と、っと、勝ち馬や負け犬からなる無条件分布の差が生存バイアスだ。 生存パイアスは当初の母集団の大きさに左右されるのを思い出そう。ある人が過去に利益を出したという情報は、それ自体では意味もないし関係もない。知る必要があるのは、当初その人が属していた母集団がどれだけの大きさだったかということだ。つまり、 統計学者がデータを見て、なんらかの関係を検証したいとする。 実際、パターンがまったくないデータはむしろものすごく怪しい。人為的な感じがする。ランダムな系列を一つつくれば、必ずなんらかのパターンが表れる。 ところが、本当にランダムなデータはランダムに見えないのだ! これは、なんにもないと発見することと、発見がなんにもないことを混同している。 もっと情報がないなら判断は控えたほうがいいということだ。そのほうが安全だ。
とても小さな量、ここでは砂を一粒追加しただけで、私の初心者向けバベルの塔が崩れるという、不釣合いに大きな効果が表れた。 「思いがけない受注や、弁護士とたまたま出会ったことや、経営者の気まぐれで・・・・・・(中略)・・・・・・初期の段階での売れ行きや、時間とともにどの企業が他を圧倒するかが決まるのだ」 ネットワークのつながりが増えれば増えるほど、誰かがアクセスする確率は高まり、いっそうつながりは増える。 毎日勉強していればそれに比例して何かが身についていると思う。進んだ気がしないとやる気が出ない。でも、現実は厳しく、線形で正の進歩なんてめったにない。 私の商売で言えば、価格の安い証券を持っていればいいことがあるかもしれないが、なんらかの臨界点に達するまで、いいことは起きないかもしれない。ほとんどの人は、そうなる前にあきらめてしまう。 なんにでも成功の後ろには非線形の効果があることに気づいた。いいねと言ってくれる程度の人がたくさんいるよりも、熱烈なファンが一握りいるほうがうまくいく。
私たちが一度に思い浮かべることができるのは状態一つであり、一つだけ、○ドルか二〇〇〇ドルかのどちらかだ。そんな武器しか持っていないので、私たちは非合理的に賭けをする。 私たちは完璧には合理的でなく、日常的には近似を行っている、問題がそれほど犬きくない場合にはとくにそうだ、という主張だ。一方、 人間の反応は、そのときたまたま開いたページに載っているルールで決まるのだ。 選択肢の与えられ方で好みが変わるのだ。そんな歪みが起きるのは、私たちには知ったことを全部覚えておいて利用することができないからだ。ヒューリスティックの重要な特徴は筋が通らない点なのである。 物事を一般的な文脈で考えるとき、そのときどきに合わせて局所的に必要な知識の塊を断片的に集めてくるのだ。その結果、人は気まぐれに参照点を決めて、そこからの差でしかものを見ない。絶対水準ではなく、決まった局所的な観点からしか物事を判断できないのだ。 実は、現実の日常では変化分で考える状況しか起きない。利益の喜びよりも損の苦しみのほうが大きいという事実は、累積のパフォーマンス、つまり累積資産額よりも直近の変化のほうが強い影響を及ぼすことを示している。 ヒューリスティックとバイアスの研究者たちは、システム1が経験に影響され、システム2の要素を取り込むことがあると信じていると聞いて、自分の考えは正しいのだと思った。たとえば、チェスを学ぶときに使うのはシステム2だ。でも、しばらくすると直観が働き出し、チェス盤を見ただけで相手が相対的にどれぐらい強いかわかるようになる。 私たちはまず(大脳辺縁系で)情緒を感じ、それから(新皮質で)理屈を考えているということだ。 人の考えの歪みを利用するトレーダーは楽しい仕事だけれど、そういう社会で自分が暮らしていると思うと怖くなる。 『私の知るかぎり、権利行使日が来ればほとんどの場合一ドル損をする一方、ときどき一〇ドル儲かるという取引を受け入れる人はほとんどいない。フェアなゲーム(つまり、一〇ドル儲かる確率が九,一%ほどある場合)であってもそうだ。 私たちは情緒で考えるのであり、それは変えようがない。 生まれたときの無条件平均余命はたしかに七三年かもしれない。でも歳を重ねて死なずにいると、年とともに平均余命は延びていく。それはなぜか?平均とは期待値ということだ。 「私が市場で(あるいは他のランダムな変数を相手に)やることは、市場やランダムな変数がどうなると予測しているかよりも、そういう信頼水準、つまり 私は自分がそういう点でとてもとても弱いことを知っている。私の人間らしい部分が私を失敗させようとする。
私たちは物事がお互いに独立に起きるとは考えない。 ボバーだろうと誰だろうと、私たちは物事を真面目に受け取りすぎるのである。 私の心と頭は一致しないから、トレーディングをするときは非合理的な判断をしないよう、本気で取り組まないといけない。つまり、
「私が生まれてこの方出会った中で最高のトレーダーであるナイジェル・バベッジは、 われわれは、自分自身と矛盾する権利を要求する!
幸せな人たちは充足化するタイプの人たちであることが多い。 書いていいのは長さが予測できないときだけだ。終わりが見えたりアウトラインの気配がしたりしたらもうだめだ。 予測不能性は強力な抑止力なのである。 他人にしてほしくないと思うことを、他人にもしてはいけない、残りの部分は単なる注釈にしかすぎない 私たちは、目に見えるものや組み込まれたもの、個人的なもの、説明できるもの、そして手にとってさわれるものが好きだ。
ローカルズは、注文のフローを読み、そのときどきで一番弱い参加者を、短期的に価格を吊り上げたり、引きずり落としたりして叩く。たとえばストップロスの水準が近い参加者がいるのを察知すると、ストップロスの価格をつけに行く。そのうえで、ストップロスの取引を利用して利ざやを稼ぐ。 「制度や規制をつくれば、規制を受ける側はその規制を織り込んだうえで行動する」
そういうことをやっていないと成功できないけれど、それだけで成功できるわけじゃない。そういうことが成功の原因ではないからだ。
運を味方につけろ!
お金持ちはみんな粘り強くてよく働く人たちだからといって、粘り強くてよく働く人がみんなお金もちになるとはかぎらない
ものすごく簡単なゲームのように思えて、いい加減にやってしまうのだ。
確率はあれほど巧みに計算できる科学者たちでさえ、ここでは意味のあるオッズを計算できない。彼らの知識は現実の弾倉が見えているときにしか使えない。その現実の弾倉について、私たちは一般的になんにもわかっていない。
でも、私は板ばさみに苦しんでいる。
一方では、私だって他人と一緒に現実の世界で仕事をしている。そして現実の世界で生きているのは、バブバブ言うだけで結局は何の意味もない、いようがいまいが本当にどうでもいいマスコミだけではない。
だから世間の皆さんがランダム性にだまされ続けてほしいと思う(私が彼ら相手に取引できるように)。
私にとって最大のリスクは成功することだ。私の場合、成功するということは、仕事が消えてなくなってしまうということだからである。われながら、まったくおかしな商売だ。
私たちの頭は、ほとんどの事象を、起きる以前ではなく起きて以降に照らして解釈する。
確率論の数学者たちはそれにすてきな名前をつけている。エルゴード性だ。おおざっぱに言って、
新しい考え方よりも蒸留された考えにこそ価値があるのだという直感に拍車がかかる。
一方ノイズ、少なくともノイズの一部は、その間に取り除かれている。
これは問題がシステマティックなときに見られる症状だ。つまり、まったく同じやり方をしているトレーダーがたくさんいるということになる。他のトレーダーも損をしているというのは罪を告白したのも同然だ。
その結果、過去の出来事を左右した偶然の要素が見えなくなってしまう。
自分の方法が間違っている可能性に備えて余裕を持っておくぐらいはすべきだ。
ソロスはいろいろ欠点もある人だけれど、
でも、
合理的なトレーダーが、月曜日に株式は上昇するというバターンを発見したとする。すると、そんなパターンはすぐに誰もが気づく。それを利用して儲けてやろうと金曜日に買って月曜日に売る人たちの取引で、パターンはならされて消えてしまう。
彼らはなんらかの観察結果(それには過去の歴史も含まれる)からつくったアイディアにもとづいて取引を行う。しかし、ボパー主義の科学者と同じように、
間違っていたことがわかったら取引を手仕舞うのだ。そういうやり方をストップロスという。あらかじめ決めた、ここまできたら脱出するという場所であり、黒い白鳥に対する予防だ。これを実践している人はほとんど見ない。
加えて、この例はエルゴード性も描いている。つまり、
安易に因果関係を思い浮かべるというバイアスが私たちにはある。
シャワーを浴びながら振り返る